仏壇にはお供えするものはなんでもいいわけではなく、「五供(ごく・ごくう)」という考え方をもとに、供えるべきものが決まっています。
今回はそのなかでもお水やお茶といった「喉の渇きを潤す」お供えについて中心に解説します。最後に五供についても触れているので、ぜひ参考になさってください。
仏壇の意味
今回のテーマは「仏壇へのお水の供え方」なので、まずはお供え物をする対象である「仏壇」とはそもそもどのような存在なのか、ということから解説しましょう。
家にある小さなお寺である
故人をお参りするには、本来はお寺やお墓まで赴かなければならないものですが、毎日行くというのはやはり大変なものでしょう。しかし仏壇が家にあれば、いつでも手を合わせ、故人を偲ぶことができます。
仏壇は、いわば家にある小さなお寺、といえるのです。そういわれてみれば、仏壇がお寺の本堂の縮小版に見えてきますよね。
そして仏壇の1番上の段にはご本尊様を、その下の段に位牌を置き、ご本尊様とご先祖様および故人に手を合わせるのです。
この世とあの世の境界
お盆に故人がこの世に戻ってくるとき、仏壇を通して帰ってきます。故人の魂は、自宅の仏壇を目指して降りてくるのです。つまり、仏壇はこの世とあの世の「窓口」の役割も果たしているといえます。
仏壇にお水をお供えする意味
仏壇にはさまざまなものをお供えします(五供といいます。後述)。まずはお水をお供えすることにはいくつかの意味があるので、それを知りましょう。
故人の喉の渇きを潤してもらう
亡くなった人は常に喉が渇いているという考えから、喉を潤してもらうためにお供えします。
人は亡くなってから、極楽浄土にすぐにたどりつけるわけではありません(ただし浄土真宗では、亡くなってすぐに浄土にたどりつくとされています)。極楽浄土は飢えも渇きもない世界ですが、そこに行くまでの間は故人も喉が渇いてしまうのです。
感謝の気持ちを表す
生きている人たちが、飲食に困っていないことを感謝する気持ちを表している、という意味もあります。
布施の心
この世に生きるものは、動物でも植物でもお水は必要不可欠な存在です。その「命の源」を仏壇にお供えするということは、あらゆる生き物に対して「布施(施し)」をするという意味にもなるのです。
極楽浄土を表現
きれいな水は、透明で澄んでいます。これが「穢れのない極楽浄土を表している」という見方から、仏壇にはお水をお供えするのが必須ともいわれています。
お水をお供えするときのポイント
お供えするのはお茶ではだめ?
結論からいうと、決まりはないためお茶でもお水でも問題はありません。どちらを置いても、両方置いても、かまわないのです。
透明で澄んだお水は浄土を表しているからお水をお供えする、お茶は淹れるのに手間がかかるのでお茶をお供えする、と考え方も人それぞれです。
とはいえジュースは避ける
ではジュースはどうかというと、これは避けた方がよいでしょう。
もちろん、お供えする飲み物に明確な決まりがない以上は、ジュースは絶対にダメ、ということもありません。しかしお供えするお水に「穢れのない極楽浄土を表す」という意味がある以上は、「余計なものが入っている」ジュースは、お供えとしてあまり適していないといえるのです。
意味合いを考えたうえで、最終的には自分の判断で決めましょう。
器はどうする?
茶湯器といって、お茶やお水をお供えするための仏具があれば、それに入れるのが1番ですが、なければ普通の湯呑みやコップでもかまわないとされています。
どこに置く?
お茶とお水のどちらかだけをお供えする場合は、仏壇の1番下の段の真ん中に置きます。両方ともお供えするのであれば、お菓子などのお供え物を挟んでお茶が東側、お水が西側に来るように置きます。淹れるのに手間がかかるお茶を、お釈迦様のいる東の方向に置くようにするため、という説からですが、こちらも明確な決まりはないので、そこまで細かく気にしなくても問題はありません。
お供えする頻度は?
ではお供えするお水やお茶は、どのくらいの頻度で換えるべきなのでしょうか。
これにも明確なルールはありません。大事なのはあくまで仏様や故人に感謝の気持ちを表すことだからです。しかし、そういう意味からいっても毎日きれいなものに換えるのがベストといえるでしょう。タイミングはいつでもかまいません。毎朝起きてすぐ、仏壇に手を合わせるときなどと一緒に行うとよいですね。
前述したように、仏壇は「家にあるお寺」という扱いなので、毎日お寺やお墓に行くのは大変ですが、仏壇には毎日気軽に手を合わせることができます。お水のお供えも、気がついたときにすればよいでしょう。
浄土真宗では
浄土真宗はほかの宗派と違い、「人は亡くなるとすぐに飢えや渇きのない極楽浄土に行く」という教えであるため、お水やお茶のお供えは必要ありません。
ただ、前述したようにお水をお供えするのは「飲食に困っていないことに感謝する」意味もあるため、浄土真宗でもお水をお供えすることはあります。その際には「香水」として、花瓶(華瓶とも。「けびょう」と読む)と呼ばれる仏具にお水と樒(しきみ)や青木などを入れてお供えします。
五供とは
ここまでは、仏壇にお水をお供えすることについてさまざまな観点から解説してきましたが、仏壇にはお水以外にもお供えするものがあります。
それが「五供(ごく・ごくう)」です。「香・灯明(とうみょう)・花・飲食(おんじき)・浄水(じょうすい)」の5つであり、それぞれ「線香・ろうそく・仏花・ご飯・お水」をお供えします。
浄水(お水)以外の4つについても、簡単に触れておきましょう。
香(線香)
故人は線香の煙やご飯・お茶の湯気を召し上がるという「香喰・香食(こうじき))の考え方に基づき、香り供養はお供えのなかでももっとも格式が高いとされています。また、線香の煙は周囲を清めるとともに、生きている人の心身の穢れもはらうという役割もあります。線香の煙を通して、生きている人たちは仏様や故人と対話ができるといいます。
お供えする線香の数や供え方は宗派によって異なりますが、共通していえることは「線香の火を口で吹いて小さくするのはよくない」という点です。必ず手であおがなければなりません。また、焚いた線香は燃え尽きるまでそのままにしておきます。
灯明(ろうそく)
灯明(とうみょう)は、「仏様の智慧と慈悲」を象徴するものです。人間が迷い苦しむ暗闇を照らしてくれる仏様の導きであると考えられています。
また、この世とあの世の境目となる仏壇にろうそくを灯すことで、故人が迷うことのないように道しるべとなる、という役割もあります。
ろうそくは、朝のお供えの際に火立(ひたて)と呼ばれる仏具に立てて火をつけます。ただし線香とは異なり、お参りが終わったら火を消します。その際には線香同様、口で吹き消すのではなく、手であおぐかろうそく消しを用いましょう。
花(仏花)
仏花を供えることにはいくつか意味があり、「故人の目を慰める」「極楽の華やかさの象徴として飾る」「仏様に香りを楽しんでもらう」などのためといわれています。
また、花はいつか必ず枯れることから「すべての命はいずれ滅びる」という仏教の考え方を表す意味もあります。そのため、基本的には生花を供え、枯れたら交換するようにします。ただし常に生花を用意するのが難しい事情もあるでしょう。そのときは造花でもかまいません。大切なのはやはり、供養する気持ちだからです。
普段は造花、法要のときは生花というように、負担のない範囲でお供えすればよいでしょう。
毎朝、2つの花立(はなたて)にそれぞれ、ただし同じ花を活けて、仏壇の左右に置きます。仏花にはこれでなければいけないという決まりはありませんが、派手な色・トゲや毒がある・においが強すぎる・花粉や葉が落ちやすいといった花は避けるべきといえます。基本的には菊やカーネーション、その他故人が好きだった花を活けるのがよいでしょう。
飲食(ご飯)
前述した通り、仏様や故人は線香の煙同様ご飯の湯気も召し上がるため、ご飯もお供えします。
また、ご飯をお供えすることには「毎日食べ物に不自由していません」という感謝の気持ちを表すという意味もあります。
湯気を召し上がってもらうためにも、朝の炊き立てのご飯をお供えするのが理想です。仏飯器という専用の器に盛り、仏飯器(台)か仏器膳(お膳)にのせて仏壇に供え、ご飯が固くなってしまう前に下げて家族でいただくのがよいでしょう。
まとめ
お水に限らず、お供え物の扱いには細かい決まりはありません。何度も述べたように、仏様や故人に感謝の気持ちを伝えるようにすることがもっとも重要だからです。失礼にあたる方法さえ避ければ、自分自身の気持ちが伝わるやり方でお供えをするのが何よりでしょう。